光子は変? [量子力学]
光ははじめ「波」だと思われていたが、光電効果という現象により「粒子」
でもあると考えられるようになったという説明が、一般向けの本には多く
みうけられる。そこですぐに気になるのはその大きさだ。アインシュタイン
が光量子と呼んだこの光の粒は、現在光子(フォトン)と呼ばれ、素粒子
の一つとされる。
しかし、素粒子は電子やクウォークのようにモノを形成する「フェルミ粒
子」と、力を媒介する「ボース粒子(ボソン)」に大別され、光子は後者に
属する。問題なのは、ボース粒子は、その「大きさ」を議論できない代物だ
という事。大きさを議論できないものを粒子と呼ぶのは、一般人には理解
不能だ。粒子と呼ぶのはあくまで計算式の要請によるものなのだろうが
極めて不適切に思える。
でもあると考えられるようになったという説明が、一般向けの本には多く
みうけられる。そこですぐに気になるのはその大きさだ。アインシュタイン
が光量子と呼んだこの光の粒は、現在光子(フォトン)と呼ばれ、素粒子
の一つとされる。
しかし、素粒子は電子やクウォークのようにモノを形成する「フェルミ粒
子」と、力を媒介する「ボース粒子(ボソン)」に大別され、光子は後者に
属する。問題なのは、ボース粒子は、その「大きさ」を議論できない代物だ
という事。大きさを議論できないものを粒子と呼ぶのは、一般人には理解
不能だ。粒子と呼ぶのはあくまで計算式の要請によるものなのだろうが
極めて不適切に思える。
境界線探しは変? [量子力学]
少し前まで、マクロの世界はニュートン力学に支配
され、極小の世界では量子力学に支配され、その境界
線はどこにあるのかが探されてきた。
以前の記事で巨大分子のバッキーボールでも量子現
象を示す事が確認されたと書いたが、こうした境界線
探しは実はほとんど意味がないことが分かった。
というのも実はどんなスケールの物体でも、素粒子
同様に根本的には確率的な存在だと判ったからだ。私
たち人間も。
ただその確率的存在である時間も回数もゼロに近い
くらい小さい為、通常の物体に量子的現象を観測する
ことができないだけということ。
され、極小の世界では量子力学に支配され、その境界
線はどこにあるのかが探されてきた。
以前の記事で巨大分子のバッキーボールでも量子現
象を示す事が確認されたと書いたが、こうした境界線
探しは実はほとんど意味がないことが分かった。
というのも実はどんなスケールの物体でも、素粒子
同様に根本的には確率的な存在だと判ったからだ。私
たち人間も。
ただその確率的存在である時間も回数もゼロに近い
くらい小さい為、通常の物体に量子的現象を観測する
ことができないだけということ。
過去記事は変? [量子力学]
以前の記事( http://zanki.blog.so-net.ne.jp/2008-06-29 )で、
量子力学は、光などについて、「粒子」と「波」という2つの性質に
しか着目してこなかったが、他に着目すべき性質はないのだろう
かと書いた。 しかし、この2つについてだけでよいことが理解で
きた。
というのも実はこの二つの性質は、
「実在(粒子)」なのか、「確率的存在(波)」なのか
という事だったからだ。
量子力学は、光などについて、「粒子」と「波」という2つの性質に
しか着目してこなかったが、他に着目すべき性質はないのだろう
かと書いた。 しかし、この2つについてだけでよいことが理解で
きた。
というのも実はこの二つの性質は、
「実在(粒子)」なのか、「確率的存在(波)」なのか
という事だったからだ。
素人量子力学=統計学は変?(その2) [量子力学]
私はいままで(自分の勉強不足は棚に上げてだが)、統計学は科学
ではないと思っていた。安直に経験的なものの上に構築された、砂上
の楼閣のようなものだと。
特に正規分布は。
なぜあんな釣鐘型になるのか?
なぜそれが全く異なるように見える色々な事象に適用できるのか?
その理由はわからないまま、ただそうなるから使うという考えに強
い抵抗を感じていた。
釣鐘型になる、つまりバラつきがあるのは、バラつかせる原因が何
かあるハズだと、アインシュタインなら思うだろう。しかし量子論の
世界では原因など無くともバラつくものだと考える。1つのものが、
なんと「同時に」バラついて存在する。確率をもって分布するのだ。
一方、正規分布は度数分布図だが、予測に使う場合は確率分布を
示すものである。
ひょっとして、正規分布が釣鐘型である理由は、量子の世界の確率
分布がなんらかのかたちで反映されたものなのではないだろうか?
つまり、この世の全ての事物は多少の幅、可能性が確率をもって存在
し、多くの場合は即座に可能性が1つに収束して気付かれる事すら出
来ないが、最後まで収束が起こりにくいものだけが、正規分布に合致
すると認識され、統計的手法として重宝されてきたのではないだろう
か?
かなりデタラメな思いつきで書いてみましたが。
ではないと思っていた。安直に経験的なものの上に構築された、砂上
の楼閣のようなものだと。
特に正規分布は。
なぜあんな釣鐘型になるのか?
なぜそれが全く異なるように見える色々な事象に適用できるのか?
その理由はわからないまま、ただそうなるから使うという考えに強
い抵抗を感じていた。
釣鐘型になる、つまりバラつきがあるのは、バラつかせる原因が何
かあるハズだと、アインシュタインなら思うだろう。しかし量子論の
世界では原因など無くともバラつくものだと考える。1つのものが、
なんと「同時に」バラついて存在する。確率をもって分布するのだ。
一方、正規分布は度数分布図だが、予測に使う場合は確率分布を
示すものである。
ひょっとして、正規分布が釣鐘型である理由は、量子の世界の確率
分布がなんらかのかたちで反映されたものなのではないだろうか?
つまり、この世の全ての事物は多少の幅、可能性が確率をもって存在
し、多くの場合は即座に可能性が1つに収束して気付かれる事すら出
来ないが、最後まで収束が起こりにくいものだけが、正規分布に合致
すると認識され、統計的手法として重宝されてきたのではないだろう
か?
かなりデタラメな思いつきで書いてみましたが。
素人量子力学=統計学は変?(その1) [量子力学]
粒子の位置がA地点かB地点のどちらかであることが分かっている
場合、従来ならその存在位置はどちらか一方であって、そのどちらに
あるかの予測として、A地点に50%、B地点に50%の確率で存在する
だろうと答えるところだが、量子論では50%の確率でA地点にもB地
点にも同時に存在すると考える。
このコペンハーゲン学派が確率論を持ち出したことへの反対表明と
してアインシュタインが「神はサイコロを振らない。」と書いたのは
有名だが、このセリフは厳密に考えると誤解を招く。
アインシュタインは神の存在など信じていない。ここでいう神とは、
大自然の摂理のことを指している。
またサイコロは、一般人の持つイメージのデタラメ、確率、偶然な
どの意味で用いたものだ。
しかしアインシュタインはサイコロも振る時の角度、回転、初速、
テーブルの弾性などが厳密に分かっていれば、出る目も正確に計算で
わり出せるという立場だったし、まさにそのことを言いたかったが為
に出たセリフがこれだった。
残念ながら現在では、間違っていたのはアインシュタインの方だと
考えられている。ということは、この世の根底は確率が支配している
といえるのかも知れない。
場合、従来ならその存在位置はどちらか一方であって、そのどちらに
あるかの予測として、A地点に50%、B地点に50%の確率で存在する
だろうと答えるところだが、量子論では50%の確率でA地点にもB地
点にも同時に存在すると考える。
このコペンハーゲン学派が確率論を持ち出したことへの反対表明と
してアインシュタインが「神はサイコロを振らない。」と書いたのは
有名だが、このセリフは厳密に考えると誤解を招く。
アインシュタインは神の存在など信じていない。ここでいう神とは、
大自然の摂理のことを指している。
またサイコロは、一般人の持つイメージのデタラメ、確率、偶然な
どの意味で用いたものだ。
しかしアインシュタインはサイコロも振る時の角度、回転、初速、
テーブルの弾性などが厳密に分かっていれば、出る目も正確に計算で
わり出せるという立場だったし、まさにそのことを言いたかったが為
に出たセリフがこれだった。
残念ながら現在では、間違っていたのはアインシュタインの方だと
考えられている。ということは、この世の根底は確率が支配している
といえるのかも知れない。
素人量子力学=還元主義は変? [量子力学]
少し前まで科学は、目に見えるマクロなモノやコトをそれを
構成するより小さい要素の性質や法則から理解できるとし、事
実してきた。いわゆる還元主義だ。
しかし近年、光子や電子が古典物理学では考えられない振る
舞い、量子現象を示す事が明らかとなり、還元主義は完全に行
き詰った。
素粒子の実験などでも、観測対象と観測者は厳密には切り離
すことは出来ないといったことが問題になるなどし、ホーリズ
ム、つまり全てはつながっており完全には部分に分けることは
できないという、あまりにも当たり前過ぎる半ばあきらめの入
った考え方も常識化しつつあった。
しかし、量子論ではホーリズムが正しいとした上で、量子の
極微サイズでのみ有効と考えられていた性質や法則が、マクロ
な世界でも成り立ち機能すると考える学者が出てきた。
というのも量子現象が起こるミクロの世界と、起こらないマ
クロの世界の境界線はどこにあるのかという探索の結果、炭素
原子60個からなるバッキーボールのような巨大な単原子分子で
も量子現象を示すことが、知られたからだ。
量子現象とは無縁と思われていた私たちの日常も気付かない
だけで実は量子の世界の法則に支配されているかも知れない。
この考えは、「新」、いや「真」還元主義とも呼べるものか
も知れない。
構成するより小さい要素の性質や法則から理解できるとし、事
実してきた。いわゆる還元主義だ。
しかし近年、光子や電子が古典物理学では考えられない振る
舞い、量子現象を示す事が明らかとなり、還元主義は完全に行
き詰った。
素粒子の実験などでも、観測対象と観測者は厳密には切り離
すことは出来ないといったことが問題になるなどし、ホーリズ
ム、つまり全てはつながっており完全には部分に分けることは
できないという、あまりにも当たり前過ぎる半ばあきらめの入
った考え方も常識化しつつあった。
しかし、量子論ではホーリズムが正しいとした上で、量子の
極微サイズでのみ有効と考えられていた性質や法則が、マクロ
な世界でも成り立ち機能すると考える学者が出てきた。
というのも量子現象が起こるミクロの世界と、起こらないマ
クロの世界の境界線はどこにあるのかという探索の結果、炭素
原子60個からなるバッキーボールのような巨大な単原子分子で
も量子現象を示すことが、知られたからだ。
量子現象とは無縁と思われていた私たちの日常も気付かない
だけで実は量子の世界の法則に支配されているかも知れない。
この考えは、「新」、いや「真」還元主義とも呼べるものか
も知れない。
素人量子力学=粒子であり波であるは変?(その4) [量子力学]
夜空の星を眺めていてふと思った。
あのシリウスは誰にでも見える。東京のどこからでも…、
いや雲さえなければ夜の地球のほぼ半分のどこからでも。
誰がどこに立っていても見えるという事は、もし光が粒子
なら、光子は地表に隙間無く降り注いでいる事になる。だと
したらその個数は無限個…でも足りないくらいだから、ちょ
っとありえない。シリウスから地球の距離を考えても、光の
出発時にちょっと角度がズレるだけ地球到達時にはとんでも
ないズレになるはずだし。
やはり粒子ではなく波と考えた方が妥当なのか?
ところが量子力学の一般向けの本には真逆の例が説明され
ていた。光のエネルギーを波として計算すると、星の光では
人間の視細胞を興奮させる、つまり「見える」までに数十分
光の照射を受けなければならない事になる。だから光はエネ
ルギーの塊り、つまり粒子だというのである。
人間の目に到達するまでは波で、到達した瞬間に粒子にな
るとでもいうのだろうか?
あのシリウスは誰にでも見える。東京のどこからでも…、
いや雲さえなければ夜の地球のほぼ半分のどこからでも。
誰がどこに立っていても見えるという事は、もし光が粒子
なら、光子は地表に隙間無く降り注いでいる事になる。だと
したらその個数は無限個…でも足りないくらいだから、ちょ
っとありえない。シリウスから地球の距離を考えても、光の
出発時にちょっと角度がズレるだけ地球到達時にはとんでも
ないズレになるはずだし。
やはり粒子ではなく波と考えた方が妥当なのか?
ところが量子力学の一般向けの本には真逆の例が説明され
ていた。光のエネルギーを波として計算すると、星の光では
人間の視細胞を興奮させる、つまり「見える」までに数十分
光の照射を受けなければならない事になる。だから光はエネ
ルギーの塊り、つまり粒子だというのである。
人間の目に到達するまでは波で、到達した瞬間に粒子にな
るとでもいうのだろうか?
素人量子力学=粒子であり波であるは変?(その3) [量子力学]
それ以前に、粒子というのは「カタチ」であり、波というのは「動き」だ。
それをいっしょくたにして、そもそもカテゴリーエラーなんじゃないの?と
誤解しそうになる説明の本や教科書が多い。
光は媒体を必要としない。波ではないからだ。波の性質の一部を持っている
にすぎない。
それをいっしょくたにして、そもそもカテゴリーエラーなんじゃないの?と
誤解しそうになる説明の本や教科書が多い。
光は媒体を必要としない。波ではないからだ。波の性質の一部を持っている
にすぎない。
素人量子力学=粒子であり波であるは変?(その2) [量子力学]
粒子であり波であるというのがナンセンスなのは明らかだ。だから、
そういうものだなどと簡単に受け入れてしまう前に、少しはあがいて
みるべきだ。
これは正面から見た時と、側面から見た時に違う形に見えるオブジェ
と同じなのではないか。だとするとこれは視線の変更を可能にするもう
1つの未知の空間か次元があるという事。それは量子力学の波動方程
式が複素関数であることと関係はないのだろうか?
そういうものだなどと簡単に受け入れてしまう前に、少しはあがいて
みるべきだ。
これは正面から見た時と、側面から見た時に違う形に見えるオブジェ
と同じなのではないか。だとするとこれは視線の変更を可能にするもう
1つの未知の空間か次元があるという事。それは量子力学の波動方程
式が複素関数であることと関係はないのだろうか?
素人量子力学=粒子であり波であるは変?(その1) [量子力学]
光は粒子と波、相容れない性質を併せ持つと言うが、光が持つ相容れない性
質はこの2つだけとは限らないのではないだろうか?量子力学はこの2つにし
か注目せずに構築されたようだが、他に光の正体を知る手がかりになる性質は
探さなくて良いのだろうか?
質はこの2つだけとは限らないのではないだろうか?量子力学はこの2つにし
か注目せずに構築されたようだが、他に光の正体を知る手がかりになる性質は
探さなくて良いのだろうか?